さようなら清志朗

そして多分、このブログもさようなら。

伝説となった「タイマーズ@夜のヒットスタジオ生中継」より。

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実は日本で内戦が勃発中という噂について

ここ一月ほど密かにネットで囁かれていたのが、「実は日本では現在ゆっくりと革命が進行中である」との都市伝説である。このゆっくりというところがミソで、表面上は何が起こっているのか見えない。マスコミも一枚噛んでいるのではっきりと報道しない。でもネットで囁かれている事実を幾つか繋ぎ合わせると、朧気に噂は実態を帯びて見えてくるから不思議なモノである。

自民党の成り立ちは自由党と民主党という2つの政党が合体して出来上がったのだが、そのときのスポンサーはアメリカ政府であることは公然の秘密である。中国やソ連と国境を接し、暴発しつつあった北朝鮮などを牽制するために、地理的に最も好都合な位置にあったのが日本である。その日本に親米政権を樹立し、米国の言いなりになる人物を政府要人として登用し、時には首相としてバックアップもしてきたわけである。このあたりの事情は自民党の歴史を綴った書籍を見ると詳しく説明されている。

話はいきなり昨日のスキャンダルを振り返るのだが、中川財務相が辞任したわけである。日本人報道陣しかいない記者会見場に酩酊した状態で現れトンチンカンな受け答えをした映像がなぜかイギリスなどの外国メディアで流れたという妙な展開で、一緒に酒を飲んでいたのが読売新聞の女性記者であったり、その時も財務省の役人が目付役として付いていたりして、大臣がそんな状態であるのにどうして記者会見などやったのか、どうして役人は留めなかったのかと考えると、中川は嵌められたというのが最もあり得る可能性だろう。

ここのところ麻生政権が行き詰まっている原因のひとつに、郵政民営化に対する疑問を政権自らが呈してしまったことがある。郵政民営化というのは、郵便局に預けられた日本人の預貯金を、米国の金融会社が窓口となって米国債などを買って米国政府と途中に入った資本家達を潤す為等に仕組まれた国際的な詐欺機構の別名な訳だが、かんぽの宿がオリックスに非常識なほど低額で売り飛ばされそうになった段階で疑問があがり、そのまま郵政民営化本体にも差し障りが出そうなほどのスキャンダルになりかけたのである。この問題が表面化し始めたら早速テレビにはオリックス生命保険のスポットCMが次々と流れ出してテレビ関係者は一斉に口を閉ざしだしたという泣けるオチが付いたのだが、世間は一斉に郵政民営化は実は焦臭いのだと再発見したのである。その後麻生総理は国会答弁で、実は郵政民営化には反対だったとか、何とも日和見な態度を示してしまいさらにバッシングを受ける結果となった。ようやく正直に本心を言ったらバッシングされるなんて不幸な人である。

すると小泉元首相が動き出した。元々郵政民営化を唱え始めた男であり、この男が政権を担当していた間は、子分の竹中平蔵が仕組んだ巨大銀行の合併などに絡んで多数の自殺者を出したり、異議を唱える経済学者は盗撮行為で捕まったり、外務省現役職員や国会議員なども国策捜査によって捕まったり、経団連などの意向をくんだ派遣法の改悪などをして現在の雇用不安を編み出した香ばしい人である。その男が改革を止めてはならないと啖呵を切ったらマスコミが飛びついた。啖呵を切った場所は郵政民営化を推進する会のようなものだったらしいのだが、参加していた議員は全盛時の3分の1以下だったようだ。それは兎も角、ここまでくればどんな馬鹿でも分かると思うのだが、郵政民営化という踏み絵を踏む者と踏まない者というグループが対立しているようなのである。

そんなわけで今日本国内に於いて激しい内戦が勃発しているのである。小泉元首相に代表される親米保守、鳩山邦夫総務相に代表される純粋保守プラス中道の勢力である。そこにIMFへの約9兆円出資以外になんとしても郵政民営化による巨額日本円が欲しい、そして日本が導入するメリットなど何もないF22戦闘機を売りつけたいクリントン国務長官来日のタイミングで、反米よりにシフトしていた中川大臣がまず嵌められた。これで純粋右翼と中道の連中はちょっとびびっているかもしれない。

ついでに書くと日本海にある天然ガス利権を巡って中国が暗躍しているようで、沖縄を巡って激しい攻防が繰り広げられているとも言う。中には中国軍沖縄上陸により占拠という悪夢もネットには巡っているのだが、いったいどうなんだろう。どちらにせよ日本の内乱に乗じて、米国中国北朝鮮韓国などが日本利権を食い物にしようと激しい戦いをしていることは事実らしい。誰もが日本円を分捕ろうと虎視眈々と狙っているわけだ。

次の選挙は遅くとも9月までには行われる予定で、世論調査によると民主党優位である。民主党というのは実は自民党と同じような政党で、自民党より本職の左翼が多いという程度の違いでしかない。次の選挙で民主党中心の政権が出来た暁には、小沢一郎は民主党内の左翼を切り捨て自民党内の純粋保守と中道を取り込み、鳩山邦夫あたりを首相に担いで、郵政民営化を凍結したら面白いなあと思う今日この頃である。

まぁそれまでは麻生君にがんばってくれとエールを送ろう。何はともあれ麻生君があまりに指導力に欠けるからこそ、下々の者達が好き勝手に活躍し始めたわけで、首相としては兎も角プロデューサーとしてみるとなかなかのものですよ。(以上他サイトを纏めただけのエントリーでした)

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今、機械式カメラは何を買うべきか

このブログがヒットする検索ワードで最も多いのが「機械式カメラ」という言葉のようだ。以前ハッセルブラッドについて書いた時に機械式カメラという言葉を使ったのだけれど、今再び僕の中で機械式カメラがブームなのである。そんな訳で今回のブログは今が底値だと思える機械式カメラについての備忘録である。今回はその中でも特にお買い得感の強い国産35㎜一眼レフについて書く。機械式カメラは新品でも売っているが、ここでは中古カメラについてのエントリーである。はっきり言って新品で買える機械式カメラより、中古機械式カメラの方がバリエーションも広く値段も安くて楽しいのである。

機械式カメラとは何かというと、電池を使わなくても撮影できるカメラのことを指していう。しかしながら大抵はTTL露出計というモノが内蔵されている。露出計は電池で動かしているのだが、電池が切れて露出計が動かなくても、シャッタースピードが全速切れてフィルムが巻き上がれば撮影は出来るわけだ。ピントの調節ももちろんファインダーを見ながらマニュアルで行う。

その機械式カメラの何が魅力なのかというと、もはやデジタルカメラが全盛であり、フィルムの種類も減って値段もじりじりと値上がりしている昨今、フィルムカメラ自体に人気がなくなってきていて、中古カメラの相場は下がっているからとにかく値段が安いのである。そして機械式カメラは電気回路自体が大したことがないので電気的な劣化によって使えなくなることがなく、機械のコンディションさえよければ30年前のカメラでも難なく使えてしまう。電気回路の修理は大変だし補修部品のストックがなくなるとそこで修理不可能となってしまうのだが、機械部分の修理は腕のいい修理職人に掛かると何とかなってしまうモノである。つまり機械式カメラは古くて安くなっていても、使えるモノが多いのだ。だから自動露出のカメラは便利だけれど、機械式カメラに比べると魅力が半減する。

そしてついでに言うと、こうしたマニュアル一眼レフというモノは、ファインダーを覗いてピントを合わせる必要性から、どれもファインダーの作りが大変よろしいモノなのだ。もちろん古すぎるモノはファインダーも暗くて合わせ辛いのだが、銀蒸着やアキューマットなどが出現した以降のカメラならどれもスカッと抜けのいいファインダーを持っている。これはファインダーでピント合わせをする必要のないAF一眼などには望むべくもない機能で、特にAPS-Cサイズの撮像素子を持つデジタル一眼レフのファインダーなど比較にならないほど広くて見やすいのである。

機械式カメラを選ぶ際の注意点は色々とあるけれど、シャッターや巻き上げなどの機械部分、ファインダー、そしてモルトプレーンなどを注意深く見るのが基本だ。シャッターや巻き上げはきちんと仕事しているかどうか、実際に触ってその感触を自分の経験と照らし合わせるしかない。変な動きや感触があるかどうかをヒントにするべきだろう。一度で収まるべきショックが数度に分れていたり、異質な金属音がしたり、引っかかりがあるかどうか。

そしてファインダーを覗いて曇りがあるかどうかを見る。出来れば実際にレンズをつけてピントを合わせてみる。ファインダーを明るくするためにプリズムの外側に銀蒸着されている機種があり、これが腐蝕しているかどうかも気をつける。実を言うとこの銀蒸着というモノが製造後20年以上経った昨今になっていよいよ腐蝕しだしているようなのである。これはファインダーでは影になって見える。腐蝕はやがて広がっていく可能性が高いので、こういう個体には手を出さない方が賢明だと思う。

そしてモルトプレーンのチェックである。通常モルトと短く略して言うことが多いのだが、これは一眼レフならミラーの当たる所や、裏蓋の開閉部分に貼ってあるスポンジのことだ。ミラーショックを吸収したり遮光のためになくてはならないモノなのだが、如何せんスポンジを接着剤で貼り付けてあるようなモノなので経年劣化でボロボロになってくる。ボロボロになったモルトはシャッターや巻き上げ機構の中に入り込み故障の原因を作る。そうなると重修理が必要になるので、モルトが破損している個体には手を出さない方がよいと思う。

さていよいよ実際にカメラを選ぶ作業にはいる訳だが、ここで是非勧めるのは、レンズマウントに束縛されるのは止めようということである。今自分が持っているAFマウントのレンズに合わせて機械式カメラを選ぶのではなく、どうせならレンズも一緒に買ってしまう心意気を持てば、選ぶカメラの選択範囲は一挙に広くなる。どうせ広角標準望遠の三本くらいしか買わないし、MFレンズも今が底値だし、高価なレンズなど買う必要はない。今まで使ったことのないメーカーのカメラを使ってみるチャンスなのだ。

そんな訳で、つい長くなってしまったので、このエントリーは2回に分けて、次回はカメラの具体的な名前を出して色々と書いてみようかなと思ったけれど気が乗らなくなったのでここまで。

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映画 「ファニーゲーム U.S.A.」を観てしまう

この映画を観るべきではないだろうという思いと、やはり観なくてはならないという義務感が自分の中で葛藤し、つい時間が余ったからという言訳を作って劇場へ足を運んだ。見終わっての感想はやはり思ったとおりだった。ここまで観客を挑発するのは尋常ではない。演出は一点の曇りもなく澄み切ってクリアーではあるが、それはサタンの透明さである。善意など欠片もない。しかしこれは決して駄作ではなく、圧倒的にクオリティの高い名作である。映画の純度が高いが故に不快指数も高いというだけである。

映画は大柄な四駆ワゴンが小型ヨットを牽引しながら湖畔の別荘に向かう風景から始まる。ティム・ロビンスとナオミ・ワッツの夫婦はカーステレオでオペラの曲当てクイズをして楽しんでいる。後部座席ではそんな両親を見て自分も楽しそうにしている幼い男の子がいる。オペラのアリアが次々と流れ、夫婦は曲名を当てたり外したりして、やがてカメラはフロントガラスの真っ正面からこの三人を捕らえる。そこに真っ赤なタイトルが突如現れ、音楽はオペラからいきなりノイズの混じった大音響のパンクロックへと変わる。この映画がこれから観客を導こうとする方向を示してしているタイトルバックである。

隣りの別荘の前を通りかかると、そこの主人が庭でゴルフの練習をしている。主人公の夫婦は車を停めて挨拶し、あとでボートを湖に下ろすのを手伝ってくれと頼むのだが、隣りの主人の応対が何やら不自然だ。傍らには白いポロシャツを着た美青年がいてこちらをじっと見つめている。夫婦が別荘に着いて荷物を解いていると、隣りの主人と美青年もやってきてボートを下ろすのを手伝ってくれる。暫くすると美青年だけが再びやって来てナオミ・ワッツに卵を切らしたので分けてほしいと頼む。美青年はナオミ・ワッツの差し出した卵をうっかり割ってしまい、流し台の傍に置いてあった彼女の携帯電話も水に落として使えなくしまう。もう一度卵が欲しいと執拗に迫り、美青年と全く同じ白いポロシャツと手袋をしたもう一人の美青年がいつしか現れ、やがて彼らは別の目的でやって来たことがわかるのである。

結局のところ彼らはこの家族を監禁し暴行していくわけだが、本当に囚われの身になるのはこの映画を見ている観客である。囚われた夫婦と子供には逃げ出すチャンスが何度か訪れる。彼らはそのチャンスをモノにしようとするのだが、常に酷い結果が返ってくる。また美青年はいきなりカメラを見つめ観客に語りかけたりもする。「彼らが12時間後に生きているかどうか賭けますか?」 そして何よりの驚きは一旦夫婦の勝利が見えた途端、いきなりビデオテープを巻き戻すかのように画面が反転し、夫婦の勝利はなかったことにされてしまう。こうなると観客は思考を失ってしまう。これまでの映画における常識の一切が、ここでは通用しないことがわかるのである。そして今まで自分が如何にフィクションの厚い毛布にくるまれて温々と過ごしてきたのか思い知るのである。

監督はミヒャエル・ハネケ。2001年「ピアニスト」でカンヌ映画祭審査員特別賞を受賞し、2004年「隠された記憶」では監督賞を受賞した人である。僕は「ピアニスト」を以前ビデオで観たのだが、これもモラルという常識に真っ向から立ち向かった映画だった。映画を観ている間の居心地の悪さといったらないのである。またこの「ファニーゲーム U.S.A.」は同監督の1997年オーストリア映画「ファニーゲーム」のセルフリメイクであるという。しかもそのリメイクのやり方というのが、同じ脚本を使い、台詞も同じなら、撮影アングルさえほぼ同じという徹底したスタイルらしい。

スタンリー・キューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」も、勧善懲悪というセオリーを逸脱させた傑作だった。悪の化身と化した主人公が捕らえられ矯正されるのだが結局元の木阿弥に戻るという物語である。しかし短いカットを縦横無尽に繋げた演出がスピーディで麻薬的に心地好く、悪の繁栄という主題よりもキューブリックのジェットコースタームービーとして記憶に残っている。サム・ペキンパー監督の「ゲッタウェイ」も悪人を主人公にしているが主人公たちは人間くさく親しみやすく描かれている。しかし「ファニーゲーム U.S.A.」では心地好さも悪人たちの人間味も描かれない。観客に悪というものをミニマムに結晶化した状態で投げつけた映画である。

それにしてもこのミヒャエル・ハネケという監督は近年のヨーロッパ映画の最先端をいっている一人だと思う。ほかに「フランドル」のブリュノ・ディモンや「カルネ」のギャスパー・ノエ、そして「息子のまなざし」のダルデンヌ兄弟たちもある意味そうだろう。彼らは皆ある一線を越えたところで作品を成立させようとしている。それらは決して見辛い映画ではなく、多少居心地の悪さを感じさせはするが、一般常識の世界に住んでいる観客にも十分見れてしまう糖衣をかぶっている。彼らの映画を観ると観客は明らかに思わぬ所へ連れて行かれることになる。それは決して心地好い場所ではないが、このような作品を通してしか辿り着けない場所である。

「ファニーゲーム U.S.A.」 公式HP

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SIGMA DP1を遂に購入する

昨年の春頃に発売されたシグマのDP1というデジカメを買った。特に買うつもりはなかったのだが、昨年末にたまたま入った大阪市内のカメラ屋の値付けがとても安かった。一旦帰ってネットで調べると、どのネットショップよりもお買い得な値段だったので、次にその店を訪れた際に買い求めたのである。

このシグマという会社は所謂レンズメーカーであって、各社一眼レフ用交換レンズで有名である。メーカー純正レンズよりちょっと値段が安いのが身上なのだが、近年高級レンズや一眼レフを出したり独自路線をとるようになってきた。そしてその決定打がFOVEONという撮像素子を使ったデジタルカメラである。最初は自社フィルム用一眼レフボディを流用したデジタル一眼レフだったのだが、やがてデジタル専用一眼レフボディを開発し、遂に未だどの大メーカーも成し得ていないデジタル一眼レフ用撮像素子を使ったコンパクトデジカメを作ってしまった。レンズは28㎜相当の単焦点一本のみ。それがこのDP1というカメラである。

だからDP1というカメラはコンパクトデジカメと同じサイズのカメラである。しかしその中身はミラーボックスを省いたデジタル一眼レフそのものという滅多にない構造を持っている。これがこのカメラの最大の特徴である。デジタル一眼レフを作っている大メーカーなら既にこうした企画を持っているだろうし、研究室ではいつでも製品化できる状態にまで仕上げられているのだろうが、既にデジタル一眼レフの価格が下がっている市場では、こんなニッチで高コストなカメラを販売しても採算が合わないのだろうと思う。

次の特徴は撮像素子のFOVEONというセンサーである。これは通常のデジタル一眼レフのセンサーとは違って、光を受光するセンサーが縦列構造で並んでいる。通常のセンサーではBGRといった各色を受け持つセンサーが隣りあい並列に並んでいて、簡単に言うと3色それぞれを受け持つセンサー3つで1つのピクセルを作る。だから隣のピクセルというものは実は存在せず、コンピューターがそれを補完する作業を行っている。一方でFOVEONは3色それぞれを受け持つセンサーが3階建ての建物のように光に対して垂直に配置されている。それ故1つのピクセルは正味1つのセンサーが受け持つことになる。これはそのまま画質に影響する。FOVEONセンサーの特徴はとてもすっきりとした表現でトーンが滑らかでありデジタル臭さが薄い。まるで中判のポジを見ているかのような気分である。優れた専用単焦点レンズの描写と相まって、撮影画像は霧が晴れたようにクリアーで綺麗だ。

だからDP1というカメラを誰にでも勧められるのかというとそうではないところが面白いところである。僕はある程度のスキルのある人でないとこのカメラを勧めることはしないだろう。その最大の理由はこのカメラを2008~9年のデジカメの基準に当て嵌めるとただの完成度の低いカメラに見えるからである。各ファンクションの動作の鈍さ、スイッチを入れて撮影スタンバイになるまでの時間のかかり具合、シャッターを切って実際に撮影されるまでのタイムラグ、メモリーカード書き込みに掛かる時間とその間他の動作を受け付けなくなる不便さ、そしてオートフォーカスの不正確さと合焦に掛かる時間の大きさなど4~5年前のデジカメ並だろう。また高感度は苦手である。使えないことはないけれど標準のASA100との落差が大きすぎてASA200以上を使おうという気になれない。今時の安物のコンパクトデジカメの方がこういった性能はこなれていると思う。

デザインについても見るからに安っぽく魅力に欠けるだろう。それはレンズキャップひとつ見てもいかにもやっつけ仕事のようである。所謂キャップを被せるだけなのだが、フードを付けただけでこれが使えない。僕はフードに合わせてレンズキャップを段ボール紙を刳り抜いて自作したけれど、顧客にこのような自作をさせることをシグマは恥ずべきだと思う。露出補正を何のためにあるのかわからないズームボタンに割り振ることも出来ず、操作性も良いとはいえない。

このカメラはJPEGでも撮影はできるが、どちらかというとRAW専用機と割り切った方がいいと思う。RAW現像ソフトである「Sigma Photo Pro」が同梱されているので、これを使ってパソコン上で露光や色味などを調節しJPEGなどに変換する。このソフトが実は優れた出来で、手を入れる部分が多いわけではないのだが、直感的に操作でき、その組み合わせで結果的に高度なレタッチを行うことができる。まるでアップル社純正のソフトウエアを使っているかのような印象だ。このソフト上で画像が撮影者の好みに変化していく様は劇的で、ただJPEGで撮影するだけではこのカメラの美味しい部分をむざむざと捨ててしまうようなものである。

DP1はコンパクトデジカメの形をしているが全く別のカテゴリーのデジカメである。コンパクトデジカメと同じと考えると出来の悪さにがっかりするだろう。しかしながらRAWで撮影しパソコンで現像することを厭わないのなら、また撮影に時間が掛かることに目を瞑れるなら、これは現在のデジタルカメラの頂点のひとつである。上手く撮れたときはその辺のデジタル一眼レフに十分立ち向かえ、凌駕すること朝飯前である。

(最近のflickrにDP1で撮影した拙写真をアップロードしています。)

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リチャード・パワーズ著 「われらが歌う時」に驚愕する

誰にでもその本を読む前と後で人生が変わったという経験があると思う。僕もご多分に漏れずそうした経験は少々あるのだが、小説のようなフィクションを読んでそこまで圧倒された経験は10代から20代の頃に偏っていて、それ以降はもっぱら専門書の類である。小説は好きだが、結局は作者が捏造した世界をその気になって読まなければならないという、読み手にもその舞台で読み手を演ずることのできる才覚が必要なのだろうとか、専門書のように単刀直入に物事の真実を明らかにしてくれる方が手っ取り早くていいや、などと思っていた。

そして1957年生まれのアメリカの作家リチャード・パワーズの2003年度作品「われらが歌う時」を読んで、自分はただこのような小説作品に巡り会っていなかっただけだったと知った次第である。僕にとって「われらが歌う時」は、高校生の頃にガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んで以来の文学的事件である。400字詰め原稿用紙に換算して1,000枚を超えるという大作であり、書籍も上下巻に分かれ、各3,360円と高価であるがその見返りはドストエフスキー級だった。

物語は1960年代のある日、白人と黒人の混血少年ジョナがリートを歌う場面から始まる。リートとはクラシック音楽の声楽である。伴奏でピアノを弾くのはジョナの弟である「私」である。そこは歌手のコンクール会場で「私」は緊張でカチカチになっているのだが、ピアノの窪みのところに立っているジョナはリラックスしてコンクールを楽しんでいるかのようだ。そしてジョナの歌い声が会場に響き渡る。美しく繊細でそれでいて力強い歌声は審査員を虜にするばかりか時間をさえ止めてしまったようだ。舞台は変わって過去になる。1930年代のある日、ワシントンのリンカーン記念館広場で黒人であるが故にホールでの活動を制限された名アルト歌手の無料コンサートが行われる。そこでドイツから亡命してきた原子物理学者であるユダヤ人デイビッドと、黒人女性で声楽家を夢見るディーリアが出会うのである。

物語はこの2点の時間軸を行ったり来たりしながら進んでいく。この家族を巡る大河ドラマであり、白人と黒人との混血児たちへの人種差別とアイデンティのドラマであり、アメリカの公民権運動にまつわる歴史書でもあるのだが、実はそこかしこにパワーズの仕掛けが施され、相対性理論に傾倒したデイビッドが常に時間の概念を主張していることからも途中で推測される通り、この物語の舞台となった時間設定が、やがて物語の発端と結末を同時に語ってしまうという離れ業を見せることになる。このあたりのテクニシャンぶりがあざといと言えばあざといけれど、同時にこれ以上ない見事な幕切れが用意されている。最後までこの物語に没頭できた幸運な読者はこの結末に打ち震えるのではなかろうか。ドイツからアメリカに亡命した名映画監督ダグラス・サークがメロドラマの終わらせ方について「円環を閉じる」ことが重要と語っていたのだが、まさしくその通り綺麗に閉じられるのである。

僕はパワーズの小説を読むのは初めての経験で、話によると過去の作品のどれもが非常に複雑な構成を持ち、難しい理論的な話も多々出てきて大変なものが多いと聞くのだが、「われらが歌う時」はあっさりとは行かないまでも平易に読み進めることができた。多分に訳者の努力の賜かもしれないと思うのだが、その文章は独特なリズムである。多少癖はあるけれど、これに慣れるとあっさりと理解できる。また音楽についてもこれでもかというほどの理論が出てくるのだが、それらに詳しくなくとも物語を理解する妨げにはならないだろう。それよりも、音楽を文章にしてしまうパワーズの力量に驚愕するはずである。いったいどうすれば音楽をこのように言葉に置き換えることができるのか、ただただ舌を巻く。

もう僅かな時間の後、いよいよアメリカ建国以来初めてとなる黒人種の大統領が誕生する。オバマ新大統領の母親は白人種であり、オバマ新大統領自身は白人と黒人の混血児である。しかし彼は黒人とカテゴライズされていることを不思議に思う人は、この本を読めばその理由がわかることだろう。アメリカでは今も「黒人の血が一滴でも入れば黒人」と見なされるのである。斯様に一部の白人種たちは白以外の人種を差別し迫害する。今年の元旦にオークランドの駅構内で無抵抗の黒人青年が警官に射殺され、その一部始終が携帯電話によって動画撮影されネットで見ることができるのだが、今もって有色人種に対する迫害は行われているのである。オバマが出てきたこの年に、黒人青年射殺事件の報を聞き、ますますこの本が文学という形で語りかけてくる内容の重さに現実を噛み締めるのである。

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GAZA 2008



それでは皆さん、よいお年を。

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赤井邦彦著 「鈴木亜久里の挫折」を読む

僕がF1に興味を抱くきっかけとなった原因の一つにホンダの存在があるのは確かだ。本田宗一郎のレースへの熱い想いなど、美化され過ぎのような気もするけれど、ホンダはそういった話が似合う日本唯一の企業だと思う。ホンダエンジンが連戦連勝を飾った時代は確かに存在したし、そのことによって多くの日本人の溜飲が下がったのも事実だと思う。

今年、そのホンダを巡って残念なニュースが二度駆けめぐった。一つはホンダの援助を受けて参戦したプライベーターのスーパーアグリがシーズン途中で撤退したこと、もう一つはつい先日なのだが、ホンダ自身が自らのワークスチームを売却或いは精算して完全撤退を決めたことである。どちらもホンダ絡みなのだが、スーパーアグリとワークスホンダの撤退はまるで違う。前者は資金的な行き詰まりによるものであり、後者は高度な政治的判断である。尤もファンにとってはホンダのいなくなったサーキットを眺めるだけの話で同じことなんだけど。

赤井邦彦はF1ファンなら一度は耳にしたことのあるグランプリジャーナリストである。その新刊が「鈴木亜久里の挫折」だ。副題に「F1チーム破綻の真実」とある。この本は昨年刊行された「鈴木亜久里の冒険(山海堂)」を大幅に修正加筆し文庫化した本である。昨年の時点では鈴木亜久里率いるスーパーアグリはまだグランプリ参戦をしていて、成績も良く大躍進したので、今年の途中で撤退となろうとは予想だにしていなかったのである。そしてチームが破綻し撤退したことを受けて、その真相を新たに書き起こして付け加えたわけである。この本はスーパーアグリの参戦以前から撤退に至るまで時系列に沿って取材したものである。当時報道されて既に知っていることもあるし、知らなかったこともある。撤退から1年も経っていないのに何だか懐かしく感じることもある。

この本を読んで、スーパーアグリというチームがグランプリ参戦したこと自体何かが間違っていたのではないかと率直な疑問を持った。元グランプリドライバーの鈴木亜久里がいつかは自分のチームでグランプリ参戦を目指そうと夢を持ち、やがてそれが叶うという物語は誰もが感動する現代のシンデレラストーリーである。しかし多額のバジェットが必要となるグランプリ参戦は夢だけで続けられるものではなく、冷徹なビジネスに徹しないと立ち行かなくなる問題をはらんでいる。何せ少なくとも毎年100億円前後の予算が必要なのである。しかも初年度は参戦保証金としてさらに50億円が必要である。よほど確実な財政的裏打ちがなければ続けられるものではない。そして鈴木亜久里には資金力がまるで欠けていたのである。これだけの大事業に対して鈴木亜久里は楽天的に過ぎたと考えるのが妥当ではあるが、この楽天さがなければ決してグランプリ参戦は叶わなかったことだろう。

スーパーアグリは明らかな資金不足のまま見切り発車した。結局その問題は最後まで克服することは出来ず、最終的には撤退という最悪の事態となる。この本では資金の問題が次から次へと発生する様が描かれている。参戦保証金を肩代わりする代わりにチーム名の頭にソフトバンク名を入れるよう求めてきた孫正義の非常識さ加減(メインスポンサーでないとその場所に会社名を入れることはない)、全く活動が明らかではないSSユナイテッドというスポンサーからの接触などは詐欺を題材にしたミステリー小説さながらの事件である。

それでいてスーパーアグリというチームが鮮やかに印象に残っているのは、これだけ財政に問題を抱えたチームが、2007年度に予想外の活躍をしてしまったという事実があるからだろう。ドライバーの佐藤琢磨は予選でQ3進出を果たしたし、スペイングランプリで8位1ポイント、カナダグランプリではチャンピオン・アロンソをオーバーテイクして6位3ポイントという快挙を成し遂げたのである。ワークスのホンダチームでさえ殆どポイント圏入賞など出来ない御時世での活躍は海外にもこのチームのファンを増やす結果となった。その後の撤退を考えると皮肉な業績である。

この本はスーパーアグリがグランプリ撤退した時点で終了している。この本に書かれた以降、本家のホンダがF1から完全撤退を決めた。ホンダは過去に2度活動休止を行っているが、今回は休止でなく撤退という言葉を使った。僕はこのニュースを聞いたとき、ホンダは今のF1に見切りを付けたのではないかという感想を持った。今ではトップチームの年間予算は500~600億円ほどと言われていて、経費削減策を議論しても出てくる案は統一エンジンなどエンジンメーカーにとっては許せない案ばかりである。もはやホンダとて巨大企業であり、コストと見返りを常に測らねばならない。金融不況という状況もありホンダの撤退はやむなしと思う。

この本を読み終わり、そして本家ホンダの撤退も目の当たりにして、いよいよF1は正念場に来たのだろうと思った。今後F1グランプリが続いていくのか、或いは廃れてしまうのか次の1~2年が勝負だろう。どちらにせよ現状のままではスーパーアグリやホンダの二の舞になるチームが増えるだけだろうにと思う。


2007 カナダGP 琢磨がアロンソをオーバーテイクする (各国語バージョン)


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アメリカン・ニューシネマを纏めて観る

アメリカン・ニューシネマは1960年代から70年代にかけてアメリカで制作された一連の映画作品を指す日本での俗称である。フランスのヌーベルバーグや、ニューヨークを中心としたニューアメリカンシネマとは別のものだ。詳しくはリンク先を読んでもらえばよいのでここでは説明しない。僕の世代にとってテレビの洋画劇場番組が、これらアメリカン・ニューシネマを頻繁に放映していた時期があり馴染み深い。制作費もそれ程かけられていないし大スターが出演している映画もあまりないから放映権料も安く、劇場公開から程良く時間も経っていて、テレビ放映するのに適していたのだろうけれど、観る方にとってはラッキーな時期があったというわけである。

そのアメリカン・ニューシネマの幾つかの作品が衛星テレビのWOWOWで纏めて放映され、それをハードディスク・レコーダーに録っておいた。録ったまま数ヶ月が過ぎたのだが、漸く先日纏めて観た。どれも以前に観たことのある映画ばかりなのだが、月日を開けて観直すと感慨深いものがあった。今回観たのは「怒りの山河」、「爆走トラック'76」、「ダーティ・メリー・クレイジー・ラリー」、「バニシング・ポイント」の4本である。「怒りの山河」と「爆走トラック'76」はアメリカン・ニューシネマというカテゴリーに入れてもいいのかどうか微妙なところだが、「ダーティー・メリー・クレイジー・ラリー」と「バニシング・ポイント」はアメリカン・ニューシネマを代表する傑作だろうと思う。

「怒りの山河」はピーター・フォンダ主演のアクション映画である。父親の牧場が土地開発業者によって地上げされようとするのだが、父親はそれを拒み、業者はヤクザを使って放火したり息子を殺したり暴力の応酬となり、最後にピーター・フォンダが立ち向かっていく話。「爆走トラック'76」はベトナム帰りの若者が中古トラックを購入しトラック野郎として仕事を始めようとするのだが、運送業者は非関税の煙草等違法な品物を運ばせようとする。正義に燃えた主人公の反抗はやがてトラック野郎達の団結を誘いユニオンの結成に至るという話である。

粗筋を読むだけでわかる通り、上記どちらも日本のヤクザ映画の黄金パターンだ。オリジナリティがあるわけでもなく、どちらかというとBクラスのアクション映画である。強いて言うと「爆走トラック'76」には僕の大好きな俳優スリム・ピケンズが出演していて憎めない。スリム・ピケンズというと「博士の異常な愛情」で水爆に跨ったままソ連に投下されてしまうキング・コング少佐や、「ゲッタウェイ」のラストでマックイーンにおんぼろトラックをふっかけて売ろうとする貧乏農夫などが印象深い。僕はこういう一癖ある脇役俳優が大好きである。

「ダーティー・メリー・クレイジー・ラリー」はピーター・フォンダら3人組の若者がスーパーから現金を強奪し、執拗に追いかけてくるヴィック・モロー指揮下の保安官達から、チューンナップした車で逃げる様を描くカーアクション満載の快作である。タランティーノが世界一ブルージーンズの似合う女優と言ったというスーザン・ジョージの代表作でもある。パトカーから逃げるピーター・フォンダらの刹那感とあまりにクールな人生観は、これぞ正しくアメリカン・ニューシネマと思わせる雰囲気に満ちていて、もはや語り草になっているエンディングの衝撃はいまだに色褪せてはいない。

「バニシング・ポイント」はアメリカン・ニューシネマを代表する言うより、アメリカ映画を代表する一本とも言うべき傑作である。注文主に車を届ける仕事をしているバリー・ニューマンは白いダッヂ・チャレンジャーに乗り込んだ途端暴走を始める。追い縋る警察の裏をかき検問を突破していく主人公に同調する盲目の黒人DJ、砂漠のキリスト教原理主義教会やヒッピーなどが主人公と関わっていく。やがて主人公の過去が少しづつ明らかになり、どうしてこの暴走を始めたのか朧気に観客にもわかるような展開である。全編に漂う刹那感と諦めて死に向かう主人公の屈折した感情の演出が素晴らしい。また撮影がラズロ・コバックスなのである。アメリカ南部の繊細な自然光の扱い方はこの時期の低予算映画独特のものだ。たくさんのライトを使う予算がないので自然光で撮っているのだけれど、才能のあるカメラマンにかかるとただの自然光がアートに昇華する具体例である。

以上の4本に共通するのは70年代のアメリカ南部のささくれ立った風景と未来の見えない若者の刹那感(特に後の2本)である。ベトナム戦争は一応の終結をみたものの、国内の産業は立ち行かなくなり、街には失業者が溢れている。景気の良いときには上手く付き合えていた旧世代との軋轢は増し、若者達はどうにもならない閉塞感に襲われている。やがて彼らは爆弾の導火線に火を点けることになる。

そして同じ状況が今再びアメリカを襲っているのである。もはやハリウッドは大作を制作する予算がないという。勧善懲悪や夢や希望を抱かせるアメリカ映画は今後減ることだろう。しかしあの金食い虫であるハリウッドの映画産業が再び低予算映画にシフトすることが可能なのかと、僕は懐疑的である。アーメン。


「ダーティ・メリー・クレイジー・ラリー」 オリジナル予告編


「バニシング・ポイント」 オリジナル予告編



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ベルリン・フィル関連の映画を2本観る

音楽監督にイギリス人のサー・サイモン・ラトルを迎えてから、その広報活動の一環として記録映画を制作し公開することも業務の一環となった、ドイツの名門中の名門であるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の映画を2本観た。「帝国オーケストラ」と「ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて」という映画である。

「帝国オーケストラ」はベルリン・フィル創立125周年を記念して制作された記録映画で、1933年から45年までの、ヒトラーのナチス政権下におけるベルリン・フィルについての映画である。当時の記録映像をふんだんに用いて、オーケストラのメンバーだった演奏者達のインタビューを交えて進行する。

ナチス政権はクラシック音楽を広報に利用し、当時から最高峰オーケストラとして世界中に名を轟かせていたこの老舗オーケストラをヒトラーやげーリングなどを迎えた演奏会に出演させ、独立した運営を誇るオーケストラではあったが実質的にナチスの支配下においた。時代の空気は各団員の活動にも及び、団員の中にもナチスに入党する者が現れたり、ユダヤ人の団員達は亡命を余儀なくされた。結局ベルリンへの空襲でコンサートホールも瓦礫と化し、戦後ナチス色を一掃し再出発をするのだが、この暗黒時代を当時からの団員が振り返るという内容である。

一方の「ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて」は現代のベルリン・フィルの記録映画で、2002年から音楽監督に就任したラトルとベルリン・フィル126名の2005年アジア・ツアーを記録したものである。訪れるのは北京・ソウル・上海・香港・台北・東京である。重点的に描かれているのは中国で、北京・上海での様子が興味深い。東京は殆ど付け足しのような扱いで記念写真的な登場である。演奏されるのはベートーベン交響曲第3番「英雄」、R.シュトラウス「英雄の生涯」、アデス「アサイラ」だ。

ここでも多くの団員達のインタビューが次々と出てくる。音楽や楽器への想いや、現地の音楽学校へ出向して生徒達と触れ合う姿、中にはこれが最後のツアーとなる老メンバーの独白などもあり、それなりに面白く最後まで見せる内容となっている。またラトルの個性というか、非常にフレンドリーでオープン且つ風通しのよい現在のベルリン・フィルの状態が心地良い。ちなみにラトルはとても綺麗な発音でイギリス英語を喋るので、ある程度英語のヒアリングに自身のある人なら字幕なしでも理解できると思う。

この2本の映画を続けて観て大きな疑問も感じてしまうのである。これは一体何についての映画なのか、という疑問である。前者はベルリン・フィルの歴史の一部についての映画であり、後者は現代のベルリン・フィルのツアーについての映画である。ベルリン・フィルは勿論音楽を演奏する為の機関であり、その部分を評価されている訳なのだが、このどちらの映画も肝心の音楽は忘れ去られたままである。勿論どちらの映画も音楽を演奏する場面はふんだんに出てくるのだが、それらは殆どBGM的、或いは場面転換の息継ぎ程度の扱いである。ベルリン・フィルが創立以来125年間関わり続けてきた音楽演奏についての真摯なドキュメンタリーではない。

僕はベルリン・フィルのコンサートに数回行ったことがあり、その印象はとにかく音が大きい、というものだった。勿論測定器で測ったわけではなく、僕の感覚がそう思っているだけで本当のところはどうか分らないのだが、低音が充実した上に中高音が乗っかるという典型的なピラミッドタイプの音質で、指揮者の最初の一振りから巨大な音が出現する。迫力という面ではこれ以上のオーケストラはなく、指揮者が面白くない奴であってもついつい引き込まれてしまう。それはベルリン・フィルに対する純粋な驚きである。驚きはやがて興味に代わり、ますますベルリン・フィルやクラシック音楽に傾倒する結果となる。

「帝国オーケストラ」はベルリン・フィルや近代ドイツの暗黒史に興味のある人向けの映画で、「ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて」はこのアジア・ツアーを聴きに行った人々なら面白く観られるのだろう。ベルリン・フィルのファンでない人がこの映画を観てベルリン・フィルを好きになったり、ましてや非クラシック音楽ファンがクラシック音楽に興味を持つことはあり得ないと思う。僕のようなファンはベルリン・フィルの音楽についての映画を観たいのであるが、これらの映画はその欲求を満たしてはくれなかったのが残念だった。

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